なんだか、なにがなんだか、今までにない春だな。
色々と書きたいことはたくさんあるけど、何をどう書きたいのかとか、
色々ぐるぐるするばかり。
今までの何かを否定するわけでもないけれど、
いつもの春だと桜が満開の今頃は、
そこらへんに人も物も何もかもあふれていっぱいだったな。
今年は、世界がしんとしている。
こんなに静かな春は、なかなかないんじゃないか、と、思ったりもする。
静寂の春。
空気は澄んで、空は青い。
先日、桜が咲き始めただろう近所の桜並木まで、
休み続きで鈍っている子どもらと大人らとでぶらぶら散歩にでた。
近所には、古い古い昭和の木造平家の市営住宅が点在しているところがあって、そこは、空き家になった家から市が潰して更地にしていっているような、
絶滅危惧地帯のような場所なのだけど、
そこに残っている数軒のうちの一軒に、
いつも素敵に花を咲かせておられるお家がある。
家の前で花を育てているお家は他にもたくさんあるわけで、
春は美しい花がいろんなお家の前でも咲きほこっていてどれも綺麗なのだけれども、
大抵のお家のは、もりもりと種類が多すぎるのか、花の色の組み合わせがもうひとつなのか、全体像がどこかごてごてしている感じがして、
ひとつひとつの花はとても美しいのだけれども‥花の組み合わせ、花壇全体の調和ってむずかしいもんだな‥とか思ったりする。
けれどもそのお家の花々は、無作為な感じながらそれぞれが主張しすぎない種類、色味で、鉢やプランターの配置なんかも含めてすべてが無造作で自然でかつ絶妙で、いつの季節も過不足なく美しくやさしく花々が咲いている。
全てが不思議と調和していて、なんだか花ひとつひとつが、そこに咲いていることを喜んでる。みたいな感じで、前からそのお家の花の情景が私はとても好きだった。
ぶらぶらとそのお家のまえの道も、まだ蕾が多かった桜をみながら歩いていたのだけれども、その時ちょうどそのお家に住んでいるおじさんが外にいて、そのおじさんが唐突に私にはさみを渡して、黄色のフリージアを指差して、好きなだけもっていって、と言ったのだった。
おじさんとは面識はないし、前を歩いてた子どもらや夫がおじさんと会話してたのかとか、どの流れで唐突にハサミを渡されたのかは、私はぼーっとしていたので不明なのだけれど、なんだかいきなりの出来事で、
そして最近、私が花屋さんで買うのはもっぱら黄色のフリージアなので、
唐突な色々に、一瞬とてもびっくりしたけれども、私は心から嬉しくて、喜びで舞い上がったのだった。
そんな私をみてか、別の丸い黄色のフリージアの鉢をさして、鉢ごと持っていっていいよ、とおじさんは言って、「え??ほんとですか?いいんですか?」と私はさらに驚いて、そして私はありがたくいただくことにしたのだった。
もうすぐ咲く白い水仙の鉢とラナンキュラスの鉢もくださるとおっしゃった。
散歩から帰ったら、自転車であとからいただきにくることにして、
ここにおいとくから勝手に持っていってと、言葉少なにおじさんは言ってくれた。
プランター2つ分に大人の背丈ほどにも薄緑が茂って華麗な白い花を咲かせている豆のつるをみながら、もうすぐ豆ができるから、これも勝手にとってくれたらいいよ。とも。 このおじさん、身なりも無造作にのびた髪の毛も釜ヶ崎にいるおっちゃんたちと共通する雰囲気があって、そして、おだやかな優しい顔だった。
この人がこの絶妙なハイセンスなチョイスで花々を育て咲かせているのかと思うと、人間って深いな‥とつくづく思うのだった。
いただいた水仙の鉢も、何年も毎年咲かせている花のようで、土の表面にはふわふわの苔がびっしり生えていて、日本庭園の一角のような奥ゆかしいたたずまいが素敵なのだった。
おっちゃんとしては全部無意識の色々なのだろうけれども。
そのあとの散歩の道中でも、車か何かがあたって折れてしまった桜の枝が道におちていたり、鉄砲百合の小さい苗を「ご自由にどうぞ」と書いてならべているおうちがあったり、でなんだかいろんな花をいただいた散歩だった。
帰って早速自転車で鉢植えをいただきに行ったのだけど、お礼はどうしたものかと考えて、ふと、「お米」が思いついて、龍神村のお米5合を袋に入れて、お礼の言葉をひとこと書いて格子戸にひっかけてきた。
こんな時普通はお菓子とかの方がいいんかなとかも思ったけど、
ちゃんとしたお菓子も家になかったし‥。
なんか私、変かな?とかも思ったけど。
でも、何が普通とかも、もう色々はよくわからない気もするし。
お米はいつの時もみんなそれなりにうれしい気がするし。
お花、とてもうれしい。
大切に育てよう。
鉢を変えるときに早速苔を崩してしまい、せっせと水をまいて苔を、またふやしている…。
睡蓮鉢のなかのは、昨日とってきた芹。植えてみる。
きゃらぶきの皮をむいている。
植物は楽しい。
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